日本 <特に大阪> がすでに全体主義化していると認めざるを得ない理由【中野剛志】
時代を読み解く視点の持ち方・学び方
■近代化や自由化が大衆を誕生させ、全体主義が生まれる
近代化や自由化を進めれば、全体主義は防げるのではない。その反対に、近代化や自由化が進んだ結果として、「大衆」が発生し、全体主義が生まれるのである。この点が、全体主義の本質を理解する上で、非常に重要である。オークショット、アレント、オルテガ、フロムなど、全体主義の病理を診断した西洋の思想家たちは、いずれも、この結論に達している。それは、本書がその前半で明らかにしているとおりである。
「大衆」とは、自ら判断せずに世論に流され、多数派の価値観に同調して少数派にマウントをとり、そして、政治の強いリーダーシップを求めるような人々のことである。そういう人々が日本中に満ち満ちていることは、言うまでもあるまい。その「大衆」から全体主義が発生するものであり、そして、実際に発生している。恐ろしいことに、現代の日本(とくに大阪)は、全体主義を恐れた西洋の思想家たちが警告したとおりの状況になっているのである。
ただし、適菜氏が注意を促すように、全体主義は、国や時代によって、「症状」が多少異なっている。「ニッポンを蝕む全体主義」は、その近代史に起因して、西洋とは異なった姿で現れた。そのことを論じるのに、適菜氏は、夏目漱石を手掛かりにしている。
全体主義は近代化がもたらした現象であるが、漱石が言ったように、日本は、内発的に近代化したのではなく、西洋から受け入れるというかたちで外発的に近代化した。その結果、日本の近代化は、西洋のそれよりも表層的なものとなった。
内発的に近代化した西洋では、近代化に対する反省や批判も内発的に現れた。そうした反省や批判は、「保守主義」となって近代化の行き過ぎを予防してきた。